アイドルとそのファンの相互成長についての一考察

お星様ぽちっとありがとうございます^^

さて、なんか仰々しいタイトルですが、単に私の考えをうだうだ書いてるだけです。あくまで私個人の一考察なので、こんな意見もあるのねーくらいの広い心で読んでいただければと思います><ですんでもし反論のある方もやさしーく教えていただければと思います(小心者ゆえすぐ傷付きます><)


あらしさんに傾倒してからアイドルとファンの相互成長について折に触れポツポツと考えてはいたのですが、先日図書を読んでいたら興味深い文章があって、今までぼやーっとしていた思考がより明確になったので、自分の備忘録のためにちょこっと書いとこうかなと。あ、ここでの「アイドル」っていうのはあらしさんに限ったこととして考えていただければと思います。
読んでた本ってのは『魯迅全集1』のなかの「天才の出るまえ」という文章なのですが。

魯迅全集 1 墳/熱風

魯迅全集 1 墳/熱風

なるほどーと思ったところをちょっと抜き出してみます。

天才といっても、別に深林や曠野に自生する変り種ではありません。天才を生み育てることのできる民衆によって産み出され、育ってくるものなのです。だからこのような民衆のいないところに天才はおりません。(中略)たとえば、灌木が欲しい、美しい花が見たいと思えば、必ずよい土が要ります、土のないところには、木も花もありません。ですから、実際、土は花よりもっと重要なのです。(中略)
悪意の批評家が、幼苗の畑を馬で走るのは、もちろんとても愉快なことでしょう。しかし災難に遭うのは、幼苗――普通の苗と天才の苗です。(中略)私が思いますに、幼稚な人は、それは齢を経た大人であることもありますが、もし幼稚な心を持っているなら幼稚な話をするだけのこと、自分が言いたいことを言い、言ってしまえば、せいぜいのところそれを印刷に付してしまえば、それで自分のやるべきことはすんだのです、どんな旗をふりかざした批評であろうと、放っておいてとりあわなくてよろしいのです。(中略)
土壌となるには広い精神を持たねばなりません。将来産まれ出るであろう天才を受け入れ理解できるように、新しい思潮をとり入れ旧套を脱するのです。

全くもってアイドルとそのファンについて書かれた文章ではないのですが。ここでの「天才」「花」をカリスマ性のある人物、いわゆる「アイドル」に置き換え、「民衆」「土壌」をそのファンに置き換えるとなかなかに思うところがあるなあと。
というのも常々あらしが言っている「一緒に成長していこう」という類の言葉。これって単に「相互成長できればいいよね」っていう純粋な側面以外のものも含まれているんじゃーないかと思っていて。それはあらしさん側が意識してなのか無意識下でなのかは分からないけど。つまるところ、あらし自体がどんどん成長を遂げていってもファンも一緒に成長しないのではあらしにとってお荷物にしか成り得ない、ということだと。だから重荷になるものを増やさないように事あるごとに「成長」という言葉でファンを引っぱり上げ一緒に成長させようとするのではと思うのです。もちろん純粋に「一緒に成長していこう」という気持ちもあると思います、が、心の片隅くらいには、きっと綺麗ごとでない部分もあるのではないかなーと。
これについては人の振り見て我が振り直せといった出来事を体験したことがあって。たとえばこんな一例も、という話です。この前のドリアラコンにてあらしファンが詰まった帰りのバス車内で、デビュー以前からのファンであろう(会話の内容から推測)女の子2人が明らかに愛が含まれないように感じられる声音であらしメンに文句を言っており。最後には「でもファンやめられないよね」という風に落ち着いていたみたいですけど。聞いていてあまり心地よいものではないけども(あ、嫌な思いをされたくない方はここから何行か飛ばして読んでいただければと><)大きな声で話してたから多分車内中に聞こえていたのではと思います。まあ会話内容を要約すると、昔はファンサしてくれたのに今は人気出たからって調子乗って全然こっち見ないし、とか、昔はファンに対して態度良かったのに今は厳しい、とか、自分が作っていったうちわ見て○○(←メンバー名)(基本呼び捨てで呼んでらっしゃった)が睨んできたむかつく、次はもっと睨まれるようなうちわ作ってやろうかなとか、それってあらし側に非があるのだろうかというようなことで文句を言い合っていて。そのとき、ああこういったファンがいるから、そして誰しもこういったファンになり得るから、あらしさんは常に「一緒に成長していこう」と示してくるんだろうな、と。
完全にその女の子達は「昔のあらしと自分たちの関係」で時が止まっていて、いまのあらしとは全くバランスの取れない状況に陥ってしまっているのだろうと思うのですよね。今現在のそしてさらに刻々と成長を遂げていっている「成長していくあらし」と「昔のままの自分」という関係になってしまっていて、それは明らかにバランスの取れた関係ではないし非常に居心地が悪いのだろうなと、だけどそれが自分たちが成長していないせいだとは認めたくない(これは多分無意識下ですよね)からあらし側を貶めてバランスをとろうとしているのだろうなと、思ったのです。
ファン歴の短い私でさえ「昔は良かった」とか何かと昔は昔はと言ってしまいたくなるときもあるくらいだし、それこそ昔からのファンの方がそう思ってしまうのも無理はない、むしろ当たり前のことだと思います。ファン歴云々は関係なく誰でも1度は考えることだと思うし。が。しかしこういったファンしかいない土壌で綺麗な花は咲くかというとそれは咲かない、と思うのです。土壌が成長しより栄養を蓄えてこそ花もよりみずみずしく美しく咲き誇るのだろうと思うし、花が咲き誇れば咲き誇るほど土壌も豊かになっていくのだろうと思うのです。悪意の批評に関しては、別に放っておいてもいいけれどやはり多少なりとも「花」に影響を与えるものだとも思うし。だからこそ良い相互関係のままファンでい続けようとするならば、新しい思潮を状況を取り入れていこうという広い心構えがどうしても必要になってくるのだろうなあと思うのですよね。そうでなければ居心地の悪さを常にまとったまま現状維持をはかるか、もう一緒にはやって行けないときっぱり離れるかしかない。
まあ、伸びていこう進んでいこうとしている方向が「花」である本人たちの望まぬ方向であった場合は「土壌」側としても受け入れる必要もないし反旗を翻すこともときには必要になる場合てのもあるし、と思うと何事も一概には言えないので難しいとこですけど。まあ、そんなことを思った次第です。